人はなぜ「自由」から逃走するのか
読んだ本
人はなぜ「自由」から逃走するのか エーリッヒ・フロムと共に考える
人はなぜ「自由」から逃走するのか (ワニの本) | 仲正昌樹 | 哲学・思想 | Kindleストア | Amazon
読む動機
自分は自由な生活を求める一方で、他者に自由を与えるために自分の自由を犠牲にしようとしていることに矛盾を感じた。このままでいいのだろうか。
解答
愛情と仕事を通して自発的に社会とつながろうとすれば、独立と個性を維持したまま自然と調和できる。
自己犠牲ではなく愛情に基づいて社会貢献するのであれば、むしろ歓迎すべきこと。
つまり服従であってはならない。自発的な行動である必要がある。
自分のやりたいことを犠牲にしてはいけない。それは自由から逃走している状態となり、全体主義の温床となる。
感想
シンプルに、好き・得意・ニーズの3点が重なるところを探そう。
ニーズのために自分の好きを犠牲にしてはならない (権威主義、自由からの逃走)。
好きのために社会のニーズを無視することも、社会とのつながりを希薄にし、孤独と不安を駆り立てる。
研究室時代の自分は、自分がやっていることの意義 (誰のニーズを満たせるか?) に対して不安を持っているから手を動かし、考えないようにしていた。
つまり、道を示してくれる権威の出現を期待しており、全体主義の温床だったといえる。
良心はその人を願望や目標に駆り立てるが、それらは外部の社会的要求が内在化したものであり、自分自身の願望ではない。
罪の意識や不安がその原動力であり、禁欲主義や犠牲的態度を引き起こす。
自分の目標が本当に自分が望むものなのか疑問に思い立ち止まる人は多いようだ。
金持ちになりたいのは快適な生活を送りたいからだけど、見栄を張ってしまっている時もよくある。
いい靴とか服が欲しい時もある。
自分は社会貢献 (人々に自由を提供する) のために技術を身につけるモチベーションがある。
あくまで自発的に、個人の価値観に基づいての行動のつもりであるから、むしろ積極的な自由と捉えていいだろう。
金持ちになりたい欲などが全くないわけではないが、あくまで自発的に社会と交わろうとしているに過ぎない。
まあちょっと野心があるくらいが人間らしくていい気もする。